街場の読書論 / 内田樹

ショウペンハウエルが『読書について』と言うような論ではなく。

書籍を切り口としたエッセイ集で、ライトに読めます。(この場合のライトに、というのは、決して易しいという意味ではなく。)

様々な話題に飛びつつも、なにかこう、読み手の懸案フックにひっかかるポイントが沢山含まれていて、気がつけばKindleのハイライトが77箇所になっていました。一度通読したあとで、折に触れてつまみ食いをするように部分部分で読んでいますが、それでも飽きないです。

ハイライトをした箇所をいくつか紹介しますと。

作家の文体について。

昨日のテーマは「文体は疾走する」。  ドライブする文体と、そうでない文体がある。すぐれた作家は一行目から「ぐい」と読者の襟首をつかんで、一気に物語内的世界に拉致し去る「力業」を使う。

作家の話を見て「わかるー」と思うのはおこがましいと感じつつも、ブログを書いている身としては「ひきこまれる」文章を書くひとや「いやみのない」文章を書くひと、「マネしたくなる」文章をかくひとなどさまざまいて、自分の文体はどうだろうかと思いを巡らせました。

出力について。

パフォーマンスというのは、端的に「知っている知識を使える」ということである。出力しない人間は、「知っている知識を使えない」。「使えない」なら、実践的には「ない」のと同じである。学者たちを見ていると、そのことはたしかによくわかる。入力過剰で、出力過少の学者たちは、そのわずかばかりの出力を「私はいかに大量の入力をしたか」「自分がいかに賢いか」ということを誇示するためにほぼ排他的に用いる傾向にある。せっかくの賢さを「私は賢い」ということを証明するために投じてしまうというのは、ずいぶん無駄なことのように思えるが、そのことに気づくほどには賢くないというのがおそらく出力過少の病態なのであろう。

仕事ができる/できないという文脈で同じようなことを考えて過ごしています。「使えない」なら、「ない」と同じ。

学びについて。

学ぶべきことがあるのはわかっているのだけれど、誰に教わったらいいのかわからない、という人は残念ながら「学力がない」人です。いくら意欲があっても、これができないと学びは始まりません。  ここでいう「師」とは、別に学校の先生である必要はありません。書物を読んで、「あ、この人を師匠と呼ぼう」と思って、会ったことのない人を「師」に見立てることも可能です(だから、会っても言葉が通じない外国の人だって、亡くなった人だって、「師」にしていいのです)。

「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、この三つです。繰り返します。  第一に、「自分は学ばなければならない」というおのれの無知についての痛切な自覚があること。  第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。  第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。

師、はロールモデルと置き換えてもいいかもしれません。

書物を読んで、目の前に居ないひとをロールモデルとしていくことは齋藤孝氏や梅田望夫氏の本(たしかお二人の対談形式の本だったと記憶)でも出てきますね。

ほかにも、内田氏が読んだ(そのとき読んでいた)書名やそこからの思考の過程で出てきた本の書名も書かれていて、

  • 平川克美『移行期的混乱─経済成長神話の終わり』
  • 難波江和英『恋するJポップ』

などなど多数。手にとってみたくなります。

含蓄がある一方で説教臭くない、単純に読んでいて楽しい本です。たぶん教養豊かな他人の思考過程をふわっと辿れる体験が面白いんだと思います。