「思い」を再考する『ブラザー・サン シスター・ムーン』

ブラザー・サン シスター・ムーン

ブラザー・サン シスター・ムーン

映画でも、音楽でも、絵でも。何かを生み出す人ってすごいと思う。自分もちょろちょろっとかじっていたので、なおさらその凄さがわかる。

恩田陸の小説、ブラザー・サン シスター・ムーンは大学の同級生3人が主人公で、3部にわたって一人ひとりにスポットを当てる。彼らは「生み出す人」でもある。 話の中では、大学を卒業してそれぞれの道を歩んだ3人が、今とそして学生時代を振り返る。

3人のうちの1人は映画監督をやっているんだけど、「生み出す者の悲哀」みたいなものが吐露されているのが印象的。

「思い」ってなんなのさ

テレビとかをみていると、よく「作品に込めた思いは?」なんてインタビューをしてる場面を見る。

この小説の主人公の1人、映画監督の箱崎は、それに違和感・・・どころか不快感を感じている。

このところ、インタビューを受けることが増えてきたけど、ほんとにいるんだねえ、「あなたにとって映画とは」「あなたにとって監督とは」とか、まるで伝家の宝刀みたいに、しかもまるで自分が初めて思いついた質問みたいな顔して質問してくる人って。 「エピソード」にも驚いたけど、「テーマはなんですか」攻撃とか、「この映画に込めた思いはなんですか」シリーズっていうのにも驚くよ。 (中略) だけど、こんな身も蓋もない質問、どうやって答えろっていうんだ?そんなの、映画を見たあとで勝手に見つけ出してくれればいいんであって、作者自身に二十字に要約してもらおうなんて、ずいぶん図々しい話だし、だったら映画なんて観る必要ないじゃないか。

学生時代に映画を作っていた身なので、わかる部分が多い。

何を考えて撮ったのか、思いは何なのか。それを言葉にする必要がある場面は意外とある。

でも、箱崎はこれはおかしいと。怒ってる。

「思い」には思いごとの形がある

上で引用した部分がもっと直接的にかかれているのが以下

「思い」という言葉を口にする奴って、なんだか知らないけど、やたらとこだわるんだよね。「映画を撮るくらいなんだから、何か伝えたい思いがあるでしょう、思いが」としつこく迫られたことがあったっけ。 もちろん、あなたの言うところの「思い」があるんだから撮ったんですよ、そもそも、それをわざわざ口で説明しなきゃならないんなら、最初から映画なんか撮りませんよ、だから映画を観てくれって言ってるのに。

思いを込めたものを形にして出したのに、それを見ないで「思いを教えて」っていうのは、確かにお門違いだ。

たぶん日常のコミュニケーションでも同じ

仕事場とか、ネットとかでも、こういう食い違いはかなり起きてると思う。

何か伝えたいこととか、本人が具体的に自覚していないモヤモヤしたこととかは、実はその人のアウトプットに出てる。

もしかしたら出し方がヘッタクソかもしれないし、うっすーいかもしれないし。 でも、思いは「口に出した言葉」以外の何らかの形になって発現してるんじゃないかと。

どうも人間「俺に分かる形でアウトプットしろ」と相手に要求しがちなんだけど、それだけだと映画監督に中身を要約させてるのと一緒だって場合もあるかもしれない。

形になってるものがあったら、それを自分から理解しにいく姿勢も大事だ。

ちょっと、その姿勢を最近なくしてたので、未来の自分に注意を促しとく。

※本記事は別ブログTales of Verifierからの移行です